忙しい毎日でも忘れたくない。今日は3月11日。

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2011年3月11日14時46分は、僕にとっても特別な一日だったので、今日は書き残しておきたいと思います。

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東日本大震災。ついにあれから9年が経ちました。僕もこのときは宮城県に住んでいました。

体験したことのない地震。見たこともないような津波。見えない放射能の恐怖。耳を疑うようなおびただしい死傷者の数。

風景は、いっぺんに変わりました。大切な人を失ったひとや、この先をどうして良いか分からなくなってしまった人、親が見つからない子供達、状況は惨憺たるものでした。

転勤族だった僕もこの地に赴任してきて、もう10年以上が経っていました。家も買い、子供達もすっかりこの地で友達を作り、かみさんもここで仕事を見つけ、家族みんながここで住むことに幸せを感じていました。

いろんなことがありました。いろんなことがいっぺんに起きました。いやなことがたくさんありました。しかし人とのつながり、まさに絆は、このときだからこそ大切な関係に気づくこともできました。だから忘れたくない。3月11日なんです。

時は移ろいゆくものだけれど

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この記事が、ブログのセオリーである、人の役に記事であるかどうかは、あまりよく分かりません。

防災の記事でもなければ、放射能について語る記事でも、津波から逃れる方法を示すような記事でもないからです

ですが、忙しい毎日と、塗りつぶされる記録と記憶で、遠い昔のことになってしまうと、どんなに大きな事件も風化してしまいます。

人間は、優秀な生物で、忘れるという機能を持っています。忘れなければ、優秀な人間の記憶機能そのものが、嫌な記憶を残し続け、本人の人格を否定し、潰してしまいます。

だから、このような未曾有の大惨事による忌まわしい記憶は、忘れたいものです。

とはいっても、日本がひっくり返るような大事件です。事件の規模や内容だけでなく、人々の感情がどう揺れていたのか、どんな感情がこのとき働き合っていたのかを書き残すことも、ブログらしい役割なのではないかと考えます。

そこで、この震災の大きな特徴とともに、現地で被災した一般市民としての僕ら家族の感情も、書き残しておきたいと思います。

1.最大震度は宮城県栗原市震度7

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僕はこのとき、仙台市に住んでいました。14時46分は営業先の白石市に来ていました。

いつものように、得意先を回って、ちょうど取引の話を終え、歓談していたところでした。

がたり、と小さく震えるように揺れたあと、一瞬なりをひそめ、次の瞬間、どん、と大きく揺れました。揺れの大きさは、入っていた得意先の建物が大きな船で、地面が産みになったような感じです。

そのまま大きな嵐が来たかのように、おおきくスイングするように揺れました。僕らはいつか宮城県沖地震の再来があると聞かされてきましたから「ついに来たか」と言い合っていました。

しかしながら、揺れがいったん収まるまで1分くらいかかったんじゃないでしょうか。

すくなくとも僕にはそう感じられました。とてつもない揺れでした。棚にある、ありとあらゆるものは、すべて倒れました。経っていられる人は、ほとんどいませんでした。

その後も大きく揺れ続けました。嵐の中でフェリーに乗っているかのようでした。僕は、床が抜けてしまうのではないかと心配になりました。助かるのかどうかすら、本気で分からない、緊張感の高い瞬間でした。

あとで、かみさんに聞きましたが、家族は家でおやつの時間をとっていたそうです。

あまりにも大きく揺れるため、子供を抱きかかえ、何もできなかったと言っていました。家も、ありとあらゆるものは全て倒れたそうです。

棚からすべて食器がでて、陶器やガラスはほとんど割れてしまいました。買ったばかりの冷蔵庫が、歩いて迫ってきたそうです。

一瞬のことで、かみさんも、なにも考えられなかったということでした。

これが震度6強の大地震のありようでした。最大震度の栗原市仙台市よりもう少し北にありますが、震度7を記録していたそうです。

ですが、これが震災の序章に過ぎなかったのは、今更言うまでもありません。

2.未曾有の高さ。20mの津波

僕らは白石市という山側にいたので、直接見たわけではないですが、猛烈な高さの津波が来ていることを、ラジオで聞き、耳を疑いました。

あのときの画は、その後たくさんの動画で流れることになるので、知っている人も多いと思います。

多賀城の街並みの中に、あんなに海水があふれてくるなんて、あり得ないわけです。もっと仙台寄りの中野栄まで水が来て、夜中じゅうラジオでこのあたりの人々からラジオ局に携帯からSOSが出ていました。

避難所の体育館でこの話を聞きながら、とんでもないことが起きた、と思うと同時に、まもなく水が仙台の中心部まで来るんではないか、と思うほどでした。

ですが助かった僕らはまだまだ全然いい方で、実際は多賀城周辺の人々は大変なことになっていました。

僕らは避難所である子供達が通う小学校に入り、なんとか暖を採ることができましたが、灯りもなく、情報もなく、ありとあらゆるものを失ってしまった人達がたくさんいました。

その人達のことを想う余裕もなく、ただ淡々と毎日が流れました。

しばらくして、名取や多賀城に行ったとき、船が国道に打ち上げられていたり、泥が打ち上げられていて道の線が見えなかったりと、市街地とはかけ離れた風景となっていました。

これが元の姿を取り戻すのは、相当先のことになるんじゃないかと思いました

3.見えない脅威。原発事故

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大震災は、地震津波とおおきなビンタを浴びせてきましたが、さらに原発事故という事態も引き起こしました。

かみさんの実家は原発のすぐ近く、20km圏内でした。

かみさんの実家のお義父さんお義母さんは、白装束の人々に強制的に家から連れ出されて、避難所へ移動させられたそうで、その後仙台の僕らの家を頼って移動してきました。

それが地震から2,3日あと。そのすぐ後に、マスコミから放射能の話が持ち上がりました。それで結局、すぐに僕以外の家族をタクシーに乗せて、山形に送りました。

結局のところ、原発から放たれる放射能の功罪については、なんだかよく分かりません。もうお義父さんもお義母さんも20km圏内の元の家に戻っています。

あのときと、今と、避難したことでなにかいいことがあったかはよく分かりません。

でもあのときはとにかくあの辺から避難しなくてはいけなかった。行政も、マスコミも、いったん離れた方がいいと言う方針でした。

その後に起きた風評被害も相当なものでした。地震津波のような実質被害と違い、人間は見えないものを特に怖がります。当たり前のことではありますが、そのことが二次、三次とあらたな被害を産みます。

今回のコロナもそうですが、人間の不安な気持ちが、一番怖いのではないでしょうか。

結果論ではありますが、この地震によって起きた放射能問題は、今から見れば、放射能異常に、人間が起こした反応によって、多くの人達が人生を振り回されることとなりました。

怒りたいわけでも、悲しいわけでもありません。ただただ淡々とした気持ちです。なんとも言えない気持ちです。

まとめ 結論の出ない気持ちを抱えて

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ここまでの話を振り返って見ます

1.最大震度は宮城県栗原市震度7

この地震そのものも凄かったですが、これが引き金となって、悲しい事件が連鎖しました。

2.未曾有の高さ。20mの津波

実質被害として、一番多かったのは、やはり津波じゃないかと思います。数万人が死傷し、町や建物は形をなくしました。津波の被害は一番悲惨だったと思います。

3.見えない脅威。原発事故

実質的な数の被害だけでなく、人の心に大きな不安を与え、その恐怖を継続させたのも、この原発事故の連鎖でした。人間の不安は、さらなる悲しみを連鎖させる、恐怖の引き金であり、もっともやっかいで恐ろしいものです。

まだまだ震災は終わっていない、という表現もありますが、一方で、被災地バブルと言われる現象も一部起きている事実もあります。

得をする人、損をする人、悲しい人、人と繋がる人、落ち込む人、復活する人、など、さまざまな人、さまざまな感情がこの震災を取り巻いています。

この震災をどう迎え撃つべきだったのか、起きてしまった悲しい出来事にどう向き合っていったらいいのか。人と人は、どうしたら良い絆を結べるのか。

人々の感情が、一番結論が出ていないんじゃないかと思います。

いま、被災地は力強く復興を続けています。

まだまだ復興活動が終わらずに、住宅問題や震災で身寄りの亡くなった子供、人々が抱えるこころの問題など多くの問題が残っていますが、もう以前の活動を完全に取り戻しているところもあります。

こういったことを、歴史の1ページとして記録するのではなく、ひとりひとりの記憶から飛ばしてはいけないと思います。

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地震や、地震が引き起こした事故という事実のことではなく、このとき人としてもった感情をたびたびよみがえらせることが、人が人らしく有り続けるためにも一番大切なのではないか、と思っています。

今日も忙しくしていましたが、14時46分は人知れず黙祷しました。亡くなった方々のご冥福を祈り、また明日から前を向いて歩いて行きたいと思います。

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